第一二〇号 国際民族文化研究所
二〇一二年四月三十日発行
「職業に貴賎なし」
社会・経済を変える意識改革
人の世は不思議である。昭和二十年代の終り頃つまり戦後九年後
中学校を卒業したが卒業生は四百五十名いたが高校に進学できる余
裕のある者は五十名程度で殆どは就職した。私たちの世代は戦争直
前に生まれたため人数も多く、また中学卒業時は戦地から戻って来
た旧日本軍の兵士で溢れていた。その上会社など僅かしかなく日本
経済といっても実態はまだ日本には経済活動ができる素地がなかっ
た。三井、三菱等の財閥系の企業はほんの一部残っていたがソニー
やパナソニックといった優秀な企業が出現する前の時代であった。
私が今でも不思議に思うのはそんな時代であっても失業とか飢餓
とか飢え死にといった暗い言葉は聞かれず人々は何とか生きていた
。人口ばかり多く働き口がないのになぜ失業や餓死がなかったのか。
私は太平洋戦争の前年の昭和十五年に東京で生まれたが空襲で信
州の山間地に逃れた。そこで十年以上を過ごしたがもし東京に残っ
ていれば焼夷弾で殺されるか生き残ったとしても餓死していたに違
いない。私の四歳頃の最初の記憶が日本橋一帯が焼け野原となり数
万人の人々が放心状態で座り込んでいた光景と上野駅やその周辺で
親を失った数万人の孤児が腹を空かせて死ぬのを待っていた状態で
ある。母に連れられ握り飯を配って歩いた記憶はあるが、東京大空
襲で十万人の死者が出たそうであるが私の想像ではそれ以外に同数
以上の餓死者が出たに違いないと思う。
私の家は複雑で説明は省くが父の会社は倒産し母は離婚して私を
連れて信州に逃れたが信州の水が合わず三千メートルクラスの山々
を仰ぎながら十数年間早く東京に戻りたいと家の複雑な事情や食糧
難に悩まされながら暗い毎日を送ったものである。
アメリカの援助で脱脂粉乳とコッペパンの給食が始まったお陰で
なんとか生きていけるようになったとはいうものの誰もが貧しく高
校に進学出来たものは極く僅かで私たちは既に七十歳を超えている
が誰もがこのような過去には口を閉ざしている。煎じつめれば高校
にも行けず十六歳の頃から汗水流して生きてきたのに社会がすっか
り変わってしまい道理も通らず道徳も廃れた社会に文句を言う気力
をなくしてしまったのであろうか。
はっきり言うと私たちの世代は戦争犠牲者である。戦争をしな
ければ或いは戦争に負けなければ私たちは生きる苦しみを味わうこ
となく優雅な一生を過ごせたのである。だが私たちの親や先輩は戦
争を起こした。そして負けたのである。そのとばっちりを私たちは
モロに受けたのである。その上日本は悪いことをしたと謝罪外交に
終始させられている。
だが、誰が親や先輩を責められようか。彼らは日本を守るため銃
を持って戦い尊い多くの命を亡くしたのである。私はひどい人生を
強いられた真の原因を調べ歴史推理小説として本紙に連載している
が絞首刑で処刑され遺骨を太平洋に捨てられた開戦時の東條英機首
相は最後まで自衛のための戦争であったことを主張している。日本
の若い女性の憧れのナイチンゲールが活躍したクリミア戦争から
のロシアの動きを警戒した島津斉彬や西郷隆盛以来日本は自衛をせ
ざるを得ない国際情勢の下に置かれていたのである。詳細は続編の
第三話「征韓論」で研究したいと思っている。
話はだいぶ逸れてしまったが終戦後の人口ばかり多く働き口のな
い時代なのになぜ失業とか餓死という現象がなかったのか。当時の
私たちは中学や高校に入ると盛んに知能テストを受けさせられた。
お金がないのに無理して高校や大学に行っても就職はない。それな
ら東京に出て丁稚奉公をして手に職を付けた方がよいと親も学校の
先生も考えたのである。実際東大や一ツ橋大学を出ても二年浪人し
て入学したものは卒業時企業の入社試験を受けられなかったもので
ある。ましてや私立大学を出ても就職先は無い状態であった。当時
のような経済状況では特別優秀な者はそれなりの職にありつけたが
大多数は食べるのに精一杯な働き口しかなかった。
ここで重要なことは「特別優秀な者」とはどういう者を指すのか
である。戦前でも「末は博士か大臣か」と博士になったり大臣にな
ったりするのが出世と考えられたが戦後でも頭の良いものは官僚に
なったり政治家になった。しかし人間の才能や適性は人によって異
なるし、また才能が開花する時期も早かったり遅かったりする。学
校を出ようが出まいが、また政治家や官僚や実業家であろうが丁稚
あがりであろうがその人の適性に合えばその人は幸せな人生を歩む
ことが出来る。見栄や自己満足のため無理して大学や一流企業に就
職しても競争についていけず脱落するのが落ちである。この辺の道
理は終戦直後の親や私たちはある程度分かっていた。確かに官僚や
政治家は偉いが職人である自分たちだって一生懸命生きているとい
う自尊心があった。そして見栄や自己満足が蔓延る余地が無かった
ため失業や餓死は無かったのである。
日本の経済は目覚ましい発展を遂げそして墜落した。おまけに自
然災害も活動期に入ってきた。一見暗い時代になったように思える
が過保護で生かされ見栄や自己満足を実現させた人々が次々と脱落
していく様を目の当たりにしている。政治家、官僚、実業家、芸能
人、文化人と分野を問わない。それは終戦直後の謙虚な生き方を忘
れた結果である。社会や経済が悪くなったといっても終戦時と比べ
ると月とスッポンの差がありもう見栄や自己満足に惑わされること
なく人間として道理に合った生き方をすれば現在の社会不安や経済
の不調を乗り越えることはさして難しいことではないと思えるので
ある。
**国際民族文化研究所**
目的:歴史を研究することによって現在や未来を検証する個人研究所
主宰:三枝篤夫
住所:埼玉県狭山市
メール:saegusa46@hotmail.com
実績:本名で過去数冊の出版実績あり
研究所機関紙「きんもくせい」(本紙)をメルマガ等で配信
その他:メルマガ、ブログで受信の方は機能上新聞の形でなくベタ打
ちになりますのでご容赦ください
**悪戦苦闘の株取引**
先日朝テレビを見ていたらテレビ朝日の解説番組が非常に参考にな
った。
内容はオーストラリアがどうやって財政を立て直し景気を良くしたか
というもので、結論は首相、財務相を含む5人程度の委員会を作り各省
の予算枠を決め官僚に工夫させるというもので当時の首相は一人優れた
人物がいれば出来ることで、若干トップダウンという点が気になったが
日本でも出来る内容であった。戦後誰が首相をやっても駄目なのでこの
際小沢氏に頼むか。
毎週この番組は非常に役だって感謝している。
歴史推理小説 その時思った
(本短編集は真の歴史研究を目的とし英雄たちが決断をするとき何を
思ったか推測により記述したもので、歴史上の事実関係には極力忠実に
従いましたが、主人公が思ったことや周囲との会話は推測でありその意
味で歴史推理小説として位置付けました。三枝篤夫著)
第ニ話 東條英機とフランクリン・ルーズベルト
ほとんどの日本人とアメリカ人は戦争をしたくなかった。昭和天皇と
東條英機首相は全力を尽くし日米和平を目指し戦争を避けようとした。
ルーズベルトも国民の九割が戦争に反対であり、彼自信も障害者として
苦難の道を歩んだ経験から弱い立場の若者を戦場に送ることは忍びなか
った。しかし、なぜ日米は戦うことになってしまったのか。
その十七 ハル・ノートに見る日米文化の違い
十一月二十七日野村大使から東郷外務大臣を通じハル・ノートを受け
取った東條英機首相は原文と日本大使館が作った訳文および外務省の訳
文およびコメントを真剣に読んだ。そして思った「原文と大使館や外務
省の訳文には間違いは無いにしても解釈の相違が生じてしまう。端的に
言えば日本側の訳文は最後通牒だ。しかし原文は乙案では太平洋の安定
が得られないので日米間の溝を埋めるため更なる協議が必要であること
が強調されている。日本側の訳文を見るとどうしても日本の満州を含む
中国からの撤退、蒋介石政府だけの承認、日独伊三国同盟の破棄が強調
されているように読める。しかもそれらを即時に実行に移すべきとする
ように読める。原文ではこれらの行動は最終目的であり取り敢えずは日
米間の更なる協議を続けることを最重要としている。しかも、満州が中
国に含まれるか否か触れていないし、三国同盟についても触れていない。
私はこの四月に岩畔大佐が纏めた日米了解案の経緯も知っておりその時
のアメリカの方針は日本が中国から撤退すれば満州国を認めるという雰
囲気であった。また今回もルーズベルトは乙案を飲む暫定協定案を議会
に報告している。一晩で暫定協定案の精神である日米協議の継続という
方針が変わるとは思えない。そもそもこのいわゆるハル・ノートは議会
の承認を得ていない私的文書の類の可能性もある。
私はスイスやドイツで大使館の駐在武官を務めた経験から国によって
交渉のやり方が異なることを学んだ。アメリカはまず自分の希望を相手
の都合を斟酌することなく相手にぶつけ譲歩を引き出すのが常套手段だ。
日本はというと相手の顔を見ながら相手を傷つけることなく円満に纏め
ようとする。日米了解案以後の日米交渉は日本のペースで進められた。
日本がアメリカの顔を見ながらそしてアメリカの腹を探りながら事を進
めてきた。アメリカとしては本当は日本の中国や満州からの撤退を望ん
でいたがそれを全面に出すと日本を怒らせるし交渉も焦る必要がないこ
とから日本のペースに乗っていた。しかし日本が南部仏印に進出しアジ
アでの南進の素振りを見せると日本への牽制として日本への石油の禁輸
を実施した。しかし、日本の乙案で日本の南部仏印進出以前の状態に戻
ることを認める暫定協定案を作ったが蒋介石や同盟国の強い反発を受け
、もう日本のペースでなくアメリカの交渉のやり方を前面に出しハル・
ノートとなって日本側に提示された。従ってアメリカの日米交渉を続け
るという方針は何ら変わっていない。
アメリカは国民や議会が戦争に反対しており軍備のための法案は成立
しない。ルーズベルトだって戦争をしない約束で大統領に選ばれた。第
一彼は大恐慌を乗り切るため戦争どころではない。戦争になればフイリ
ピンやハワイを守り切れないどころか本土の西海岸も危ない。その上自
動的にドイツやイタリアを敵に回すことになる。いかに中国やイギリス
が大切でもこのような大きな犠牲を払ってまで戦争に踏み切る道理はな
い。
私は陸軍や外務省のあらゆる情報に接する立場にありハル・ノートと
暫定協定案の心は同じであることは理解できるが日本の統帥部や内閣の
閣僚そしてマスコミや国民はそこまでは理解できまい。日本としては譲
歩に譲歩を重ねアメリカと交渉してきたのに満州を含む中国から即時撤
退せよ、蒋介石政府のみ認めて日本が支持する南京の汪政府は認めない
、三国同盟は破棄せよと言われれば如何に前文で日米の更なる交渉が必
要と言われてもこれは最後通牒と見てしまうだろう。従来の交渉の経緯
を無視するような態度で自分の希望を相手の立場を考えることなくぶつ
けるような交渉の仕方には日本人は慣れていない。要するに日本とアメ
リカの文化の違いをお互いに理解せず自分本意の流儀で交渉すると結果
的にこのようなことになってしまう。冷静に文化の違いが分かるものが
いればよいが日本政府や統帥部さらには国民にも殆どいまい。
野村、来栖両大使はハルに対しこのような文書は日本は受け取れない
と言ったらしいがハルは無表情で、そのあとルーズベルトに抗議したが
撤回する様子は無かったらしい。彼らは我ら日本本国の者たちは理解で
きると考えていたかも知れないがそれは逆で我らを怒らせるだけだ。受
け取ってしまった以上突き返す訳にはいかないがこの代償は途方もなく
大きなものとなろう」。
東條と東郷外相は参内して昭和天皇に報告するとともに政府・統帥
部連絡会議を緊急に開きハル・ノートを報告した。以下次号
**家庭菜園奮闘記**
4月末の今週15種類ほどの野菜苗を植え種を撒いた。
この時期が一年で一番難しく、また重労働である。早すぎると遅霜に
やられるし、遅すぎると苗の入手が困難になる。5月2日の88夜過ぎ
れば大丈夫というがそれでは遅すぎる。第一、畑を耕したり、肥料等を
撒くには5月になると暑過ぎてくたびれてしまう。本当は4月中旬がい
いのだが早過ぎる。
一段落してほっとしている毎日である。
Hideki Tojo, and Franklin Roosevelt (tentative translation)
Chapter 3 Development of the Marco Polo Bridge Incident
One of the aids asked President “ Mister President, I can
understand American position which we can not intervene the
European war. However I am very keen to know the contents of
Mougensou draft of US Japan Peace Treaty, to which I wonder
why such kind of treaty is necessary when we have not big
problems between the US and Japan.” Roosevelt explained the
contents of Mougensou draft. “The countries which has
relationships with Asia and Pacific area like the US, Japan
, Australia, China, Thailand, UK, and Netherlands conclude a
nonaggression treaty and these countries share their chances
of contacts with these areas equally in order to keep peace of
Pacific area and stability of Asia, which is real intention
of the United States.

